読み書き

本を読んで、血となり肉となるようなことがありました。ものを書いて、いろんな人との出逢いがありました。

大学とは何だったのか

二十歳の原点序章」を読み始めた。立命館大学に入った高野さんが、部落問題研究部に入ったところ。
 ここ奈良にも、何やら「部落差別」の場所があるらしいが、特に知りたいとは思わない。そんなの意識することが差別になると思うし、どこで生まれ育とうが、どうでもいいことだと思う。知って悪いことはないだろうけれど。


 1970年前後?には、安保闘争で、大学生の樺美智子さんが国家権力に殺されてしまった。家には、樺さんの本が2冊ある。読んではいないが、写真にあった機動隊に殺された直後のような樺さんの姿が、生々しかった。

 今のミャンマーが、同じような状況と想像する。あまりにひどい国家に対しては、反抗するしかないではないか…
 高野さんの自殺した69年、大学紛争の意味は、今や跡形もない。ぼくも知らない時代だし、全共闘世代の友達はいるけれど、当時の息吹のようなものは想像するしかない。


 で、想像する。
 沖縄のこと、ベトナム戦争のこと、アメリカと日本の関係、労働者の地位の向上、格差、差別のない社会、経済にばかり牛耳られる社会への「人間回復」の思い…

 いきなり話を自分に引きつければ、ぼくにとって大学は全く意味がなかった。みんな、「社会人になる前の、貴重な最期の遊べる時間」「学歴をつけたいから」そんな理由で来ていたようだった。

 自分は、「面白い人間と出会いたい」ことが第一希望で、大学に行った。無職じゃイケナイし、身分証明証があって初めて「自由な時間」を持てる安心感のようなものもあった。


 まわりにいた「みんな」と決定的に違ったのは、社会人になること、卒業することを前提にしていなかったことだ。そこに、ぼくは重きを置いていなかった。

 いつのまに、学歴はあった方がいいのが当然のようになったんだろう。
 大学の教養課程なんて、ほんとに無意味だと思った。こんな時間を過ごしていることに、どうして誰も疑問を持たないんだろうとも思った。これで「学歴」が付いて、イイ企業、ワルイ企業に振り分けられるなんて、どうかしていると思った。


 いかに無意味な時間に耐えられるか。そんな人間をつくり出すのが大学なのかと思った。いや、無意味を無意味とさえ感じない、完全不感症な人間をつくる工場のようでもあった。

 高野さんの手記を読んでいると、自分が大学に対して持っていた疑問が、ふつふつと湧いてきた。
 そう、社会に対して、この「世の中」と呼ばれるところへ、自分も何かしたかった… 大学は、たいした所ではない。こんなの、解体した方がいい。そうすれば、学歴社会も、変わっていくんじゃないか…


 何年前か、少子化社会になって、子どもの数が少なくなれば、学歴を競うこともなくなるだろうと思ったが、「少ないからこそイイ学校に行かせたい」という親が多くて驚いた。

 こんな社会は間違っている、国家よマトモになれ、といったような思いを、何やら活動という形で、実行していた時代が、学生運動のようだった。少なくとも、私の大学生時代には無縁の空気。今も、だろう。


 しかし、高野さんの本を読んで、やはり暴力には反対したい。これだけは絶対にダメだ。何が正義で悪だろうが、人が人を殴ったりしてはいけない。
 しかし、どうしてこんなにも、あきらめがよくなったんだろう。今の政治や社会に、不満を持っている人は、何を考えているんだろう。変えられやしない、もう、仕方がない、と、ほんとに思えるものなんだろうか。

 

(2008年頃? 記)

白夜

 ドストエフスキーの「白夜・おかしな人間の夢」(光文社文庫)を読んで考えること。
 … 己を愛するが如く隣人を愛する、これを実現したのはキリストだけであったということ。
 個我から無我になるということ。
 他者を愛そうとして、自己より他者に重きを置くことによって、個我は自ずと無我になる。
 無我にならずして、自己表現というのは為されないということ。

 ── 昔々、そこは楽園、誰もが何かを認識し、うなずき、微笑み合い、嫉妬も憎しみもない人間たちが穏やかに暮していた。
 だが、楽園は閉じられた! 主人公が、憎悪やら嫉妬やら、よからぬ種を蒔いてしまったからだ。
 幸福な国の人たちは、それを植え、育てた。── 主人公は後悔しながらも、かつての楽園の人たちが知らなかった悲しみ、憎しみ、怒り、淋しさといった感情の発芽を育て上げるのを見る。
 ── 彼は、「私を磔にしてくれ」と申し出る。だが、彼らはそれを拒否する。かつての楽園の住人たちは、幸福な国に戻ることを拒否する! 彼らは、自分から、憎しみ、悲しみ、怒り、争うことを望んだのだ。
 すると彼には、かつての楽園にいた人々より、憎み、争い、欲に駆られる人々を、以前より愛をもって見つめられる、という物語。

∴「こうすればいい、ということを彼らは知っている。だがそれを、しない」ということ。