読み書き

本を読んで、血となり肉となるようなことがありました。ものを書いて、いろんな人との出逢いがありました。

三島由紀夫

 私は、この人の著書よりも、この人自身に興味をもつ。
「悲劇を演じたいのだけれど、わたしがやると喜劇になってしまう」と、自分を言った、三島由紀夫
 何かになりきろうとしていた、プロレスラー的な人だったような気がする。
 その最期は、精一杯の演技の果てだったような気がする。
〈 舞台でほんとうの自分になり、日常で演技をする 〉人だったのかもしれない。

 オトコは、とかく何かになりたがる。変身願望が、男女共通にあったとしても、どこかが違う。プロレスでも、女子のそれは、「男性の視点」を捨てて成り立っていないように思えるし、男子のそれは、どこまでも自己満足・自分に向けての矢印が太く、さして異性への意識が女子ほどにあるとは思えない。

 三島も、ボディービルをやっていたそうだが、べつに女にモテたくてやっていたとは思えない。何か、自分に「つけたい」ものがあったのと思う。
 もし三島が、もっと背が高く、自分に満足のいく容姿であったなら、また別の人生、物語がつくられていたように思う。しかし、彼の神は、彼にそれをしなかったのだ。

 彼の神は、彼を自衛隊の駐屯地に導き、そこでの自決を彼に命じた。私が、ほんとうに苦しかったろうなあ、と思わずにいられないのは、介錯の際、介助人がその首を上手にハネ切れず(初めての介錯だったのだろう)、ずいぶん苦しんだらしい、その時間である。悲惨な、たいへんな苦しみだったろうと思う。

 私は、この作家を憎めない。とことん、イッてしまった人だと思う。好きでも嫌いでもなく、気になるのだ。「よくやったなあ!」という感嘆、畏敬とは違う、驚嘆とでもいうのか、呆れるとも違う、ただ、すごいなぁというか、妙な気持ちにさせられる。ともかく、「憎めない」と、強い口調で言えるような気分になる。

 たまに、この国、ジャパンが、一神教であったらなあ、と思うことがある。というのも、絶対的なひとつの柱、誰もが同じ方向を向く(それはとても怖いことだけれど)、そういうものがあった方が、少なくともその方向だけは、明確に決まるだろうからだ。
 キルケゴールがあれだけキリスト教について書け、ニーチェが「神は死んだ」と言えたのも、その柱があったからと思えるからだ。ダンテにしてもドストエフスキーにしても、キリスト教を抜きに、あれらの作品は書けなかったように思える。

 三島は、この国にも、一本の強固な柱が欲しかったのではないかと思う。それが、あの人を熱狂させ、固執して、自身を死に至らしめる、何かだったのだろうと思う。
 この世で、この国で、自分の最後の生命を賭ける場所として、あの人は、あの時代のあの日の、あの時でなければならなかった。
 誰に命じられたわけでもなく、彼はとことん、「三島由紀夫」であることを貫徹した…と言っていいのか(自ら死ぬことが貫徹といえるのか)…、どのようにも表現できない、ただただ、彼自身が一種の天皇になってしまったような、そこまで人間、イケるのか、といったような、とんでもなさだけを感じる。

(「潮騒」と「仮面の告白」をかじったが、途中で挫折した。言葉も沢山知っていて、きっと美しい?日本語、文体なんだろうけれど、やっぱり僕にはそれが装飾に感じられて、ダメだった。ボディビルの筋肉同様、三島さん、つけすぎだよ、と思ってしまった…)

芽むしり仔撃ち

 どうして大江健三郎は、こんな文章を書けるのだろう?
 最終章で、ぼくは涙が溢れた。主人公の「ぼく」が、自分と重なったのである。

 この小説、昭和44年の作品である。

 時は戦時中。感化院の少年たちが、疎開しながら、村から村へ、教官の指導の下に、移住を続けていた。
 物語は、とある村に彼らが行き着く頃から始まった。

 兵隊の群れがあった。だが、そこから脱走兵が出、「山狩り」(脱走兵を捕えるため)が行なわれた、そんな中で、疫病が、その村に蔓延りはじめた。
 動物、家畜が多く死に、村人も、ふたり死んだ。
 村人たちは、感化院(今で言う少年院か。主人公も、上級生を刺していた)の少年、子どもたちを、その村に閉じ込め、トロッコでしか脱出できない、別の村へ移動した。
 子どもたちは、疫病で死んだ、腐敗した動物たちの死体を埋める作業に、使われたのだ。

 だが、おきざりにされたその疫病の村には、朝鮮人の移住区もあり、村人の子どももひとり、おきざりにされていた。その子ども、少女は、母が死に、その土蔵で母の遺体の前でひとり、狂ったように途方に暮れていたのだ。

 主人公の少年とその少女の間に、愛が芽生えたりした。きれいな愛だ。
 朝鮮人の少年との間にも、友情が芽生えもした。まっさらな友情だ。

 脱走兵は、朝鮮人の部落で、かくまわれていた。

 日が過ぎる。主人公の愛した少女が、疫病に罹る。だが、その少女、病にやられた少女を、ただ生命を助けたいがために看病し続けたのは、脱走兵だ。
 少女は死ぬ。主人公と脱走兵は、おたがいのセクスを確かめ合うように、寝る。

 村人たちが帰還する。疫病が去った頃合をみてだ。
 村長が言う、「お前ら、明日、教官が感化院の新しいヤツらを連れてここに着く。ここで疫病が流行ったことを、口外するな。おれたちは、お前らを殺すこともできる。だが、生かしてやる。いいか。」
 取り引きだ。生かしてやるから、口外するな。
 少年たちは、反発する。
 だが、「メシ」が出た。言うことを聞けば、「メシ」にありつける。村の女たちがつくった、暖かいメシだ。
 少年達は飢えていた。次々、言うことを聞いた意思表示としての、「メシ」を喰らった。服従したのだ。
 最後に残ったのが主人公の少年だった。
「喰え」と、村長が差し出したメシを、少年は拒み、言った。
「おれは言ってやる、お前らが、おれたちを閉じ込めて殺そうとしたこと、おれが(少女を助けたくて)お前らの村へ行った時追い返したこと、お前らが竹槍で脱走兵を殺したこと、脱走兵の親やきょうだいに、おれは必ずしゃべってやる。」

 結局のところ、最後に残ったこの少年は、殺されるのだ。そこまで描かれていないが。

 ぼくは、この小説から、とてつもないような精力を貰った。
 ぼくは、ぼくの今まで体験してきた事実や感じてきた真実を、そのまま引きずって生きてやるし、それを「言い」、「しゃべって」やるのだ。
 ぼくは、ぼくとして、閉じ込められてきた村での自分の行ない、生きるためにやらざるをえなかった、感じてきたことを、必ず「伝えて」やるのだ。

 しかし、「芽むしり仔撃ち」、ここに記した要約、ひどいものである。
 こんなもんじゃない。
 申し訳ない。
 我慢強く、じっと読んで、最終章まで読み進まれてほしい。