セリーヌの反骨精神… というより「戦争はなくなるんだ」という強い意志の訴えとでもいうものか、文章でそれは表現されていないが読むこちらが感じ取るもの。
長い文章だからそれだけこちらにふかく浸み込んでくるようなもの。血となり、肉となる如きもの。読んでいる言葉にその文字はない、こちらがあとはつくっていくようなもの。
この作者はこう云いたいんだ、という解釈も千差万別、一人一人違ってくる… 同じ作家を好きになったからって、自分と同じように好きになれるわけじゃない。夫々に、「この作家の言いたかったこと」「この作家の世界」が異なってくる。
こういう所がイイよね、わかるよね? ファンなんだから! といったところで、わかち合おうとすればするほど、全然違うんだということがわかってきたりする。
そも、「好き」という感情をもつ自分自身がわからないんだから。そこから言葉を繕って、あれこれ表現しようとすればするほど、核である「好き」、中心からどんどん離れていくことになるんだから。
そこから出来上がって、ぐるり四方をかためたところで、虚飾── 嘘っぽい大気の層になる。
漱石が書くことを「わびしい作業」と繰り返しいう由も、こんなところにあるような気がするよ。
建築家、現実に居住をつくり、そこで人が心地よく住まう。そんな仕事をした方が、よっぽど漱石、楽しかったろう。でも漱石は文章の建築家になって、そこに人を住まわせた。
反骨精神。漱石にもあったろうか。あったとしたら、何に対してだったろう?「人間」に対してか。人間である自分に対してか。
現実・事実・実際が精神に与える影響。
セリーヌのそれは戦争、軍隊に入り戦地へ赴き、生還したこと…
助け合う、生命を愛すべきものとしてほんとうに感得し、それを体現していく。そんな世界・社会から、ゆっくり離れていくような流れを感じるのは気のせいか?
戦争は、そんな原点── 人は助け合って生きるもの、を回帰… 原点に立ち返るために必要必須なものなのか。
だとしたらずいぶんな贖罪肉を必要とするものだ! いのち、いくつあったって足りゃしない。