読み書き

本を読んで、血となり肉となるようなことがありました。ものを書いて、いろんな人との出逢いがありました。

「二十歳の原点」

 ほんとに久しぶりに読んだ。
 最後の詩は、美しいと思った。図らずも、泣いてしまった。寝床で読み終えて、余韻の興奮にうまく眠れず、やはり高野さんが死んでしまったことが悔しく、哀しく、怒りが込み上げてきた。悔しさは、何に対してか? 怒りは、何に向かってか?
 中学の時初めてこの本を読んで、やはり泣いた。その時も、同じ感情を持ったことを身体が覚えている。つまり私は、十三、四歳の頃から何も変わっていないことも再確認した。

 今回読み終えて、高野さんと私は似ていることを痛感、実感した。
 学生運動の時代、彼女は1969年に自殺した。その日に近づくにつれ、読んでいてドキドキした。自殺の結末は、もう分かっているからだ。
 彼女は家族と断絶し、友達からも離れ、意中の人に失恋し、どんどん孤独になって行った。
「未熟であること、孤独であること。これがわたしの二十歳の原点である」と、冒頭の方に書いている通りに。

 高野さんは、自殺しなければならない人だったと思う。それが、いたく感じられた。さっき、自分と似ていると書いたけれど、そうすると私も自殺しなければならなくなる。が、私はきっと、しないだろう。根っ子のところはとても似ていると思うのに、なぜ私は自殺しないのか?

 高野さんが、もし「荘子」を読んでいたらと考える。モンテーニュを読んでいたらと考える。もっと自分を甘やかし、ダメな人間になってよかったのではないかと愚想する。
 学生運動の時代に二十歳を迎えていなかったら、自殺しなくても済んでいたのではないか、とも思う。私がどんな思いを寄せようと、高野さんは死を死に続けているだけだけれど…
 彼女の自殺を、評論風に言いたくない。分析解析、「こうだったんだろうな」と、その心の過程、まわりの状況から、考えられることは沢山あるけれど、言いたくない。

 とにかく高野さんは戦ったのだ。現実に肉体をぶつけて、革命を圧しようとしてくる機動隊と、国家権力と、カネばかりに捕らわれた人間どもと。
「資本主義社会」ここに生きていけない人間は、死ぬしかないのかもしれない? 否。「創造すれば、生きて行ける」。革命か反抗か…しかし、彼女は死を創造してしまった。