読み書き

本を読んで、血となり肉となるようなことがありました。ものを書いて、いろんな人との出逢いがありました。

ニーチェの精神(1)

 路上で「死んだようになっていた」彼は、自宅に運ばれ、まる二日間、昏睡した。
 目が覚めた彼は、以前の彼ではなかった。歌を歌い、妙な言動を始め…ワーグナー夫人や友人に奇妙な手紙を送った。異常を察した神学者の友人が彼のもとを訪ねた。彼を見たニーチェは、涙を流して、友の胸に倒れ込んだ。以後、彼の精神は、その活動を止めた。それから10年の白痴状態ののちに、帰らぬ人となった。


 ニーチェの発狂。ぼくは、この人を想うたび、殊にこの最後の「正気」、狂気に入る直前直後の、彼が彼でなくなる空白の時を想うたび、胸に来る、かなしみを禁じ得ない。それまでの、立派な(社会的な位置や形が立派などという意味ではない)、偉大といっていい、思考も生き様も、彼の何もかもが停止してしまった…

 誰にだって、運命はある。時代、環境、偶然、必然、すべてが絡みあった運命だ。この人はその運命を、自分に埋め込まれ、爆弾のように内包されたそれを自ら積極的に助長加担し、全身に表面化、顕在化させて昇華した。


 〈 私は人間ではない。ダイナマイトだ 〉と、ニーチェは自分のことを言っている。


 彼が、生涯「敵」のように見なしたキリスト教。ぼくには、これが単なるキリスト教への攻撃だったとは思えない。あくまでもキリスト教な、日本でいえば孔子から輸入された道徳的なもので、その根拠をよく吟味する以前に、「なぜそうであらねばならないのか」を考える前に、かくあるべきと頭から抑えつけられ、それに従って生きるという人間の姿勢自体に、鋭い切先を向けたのだと思う。宗教・道徳的なものに依存せず、「どこまでも自分の力で、あらゆるものを飛び超えて生きて行け」という道標を立てた、本人いわく「最初の人」であった。

〈 私は自分のことを考えているのではない。人間のことを考えているのだ 〉

「空気のようなものに従うだけでは、何にもならない。」彼は言う、「道徳? 笑わせるな。人間を卑小化し、個々人の可能性を消しているだけではないか。このまま行けば人類滅亡へ導く、盲目の使徒をつくり出しただけではないか。考えよ、考えよ。なんぴとたりとも、自己自身を、おのれをおろそかにしてはいけない。おのれに導かれ、砕け散り、また創造し、跳び越えて行けよ。隣人愛などに騙されてはいけない。あれは隣人病だ」


 一方で、「キリスト者は、この世にひとりしかいない。すなわちイエス自身だ」とも言っている。いわゆる「神」を、ニーチェはむしろ認めている。好きだったのではないかと思う。ただ、「神はいないことを認め、天などを仰いで祈るヒマがあったら地を見つめ、自分の立つ足を見つめよ」ということを、強く強く言い続けた。

 同じキリスト教批判者として、キルケゴールがいる。彼の批判は、ニーチェのそれとは異なるように感じられる。このデンマークの思想家は、「ほんとうのキリスト教」を求めていた。そこから始まる批判であって、当時の「まちがった」教会のあり方を「正したい」とする情熱があったように思える。


 ふたりして、絶対的なものに、真っ向から異を唱えたことには変わりなく、それはそれは命がけの、全身をもって文筆作業に魂を投げ出していただろう…

 このふたりに共通するのは、詩的な表現。カチカチの角張った論文でなく、学問的で専門的な狭い分野を深めるのでなく、そういう要素もなくはないけれど、それ以上にまろやかな親近感、日常の道端に立つ電柱のような親しみを覚える。
 詩的なものは、心に直截響いてくる。理詰めの文章の中で、まどろめる。そこにぼくは、それを書いた人間のあたたかさを感じたりする。詩的なもの、それを感得した感性をもつ者から湧き出た、最も短い言葉、ためいきのようなものに感じる。

ソクラテスに止まらず、その先へ行こう」とした姿勢も共通している。
 そしておそらく二人とも、多勢に無勢の、無勢にあったろうこと…キルケゴールの著作など、彼の死後100年を経てやっと世に出たありさまだし、ニーチェも生存(あるいは正気であった時)中は、世の不当な評価を受け、かの「ツァラトゥストラ」第四部など、私家版で40部を刷り、7人の親近者に贈っただけだった。あれほどの著作をした人が、と、やはりぼくは胸に来る。

 彼らをつくったもの。彼らが創作したものを介し、ぼくが感じたいもの。彼ら自身をつくらせたものは、彼らのいのちそのもので、その遺した著作に、ぼくは強く強く引っ張られる。
 自分に誠実であったこと。ニーチェの存在は、それに尽きると思う。自分への誠実さから、彼の著作は止めどもなく湧出し続けたと思う。
 体感としてスムーズに入ってくるニーチェのことを、しばらく記したい。ニーチェ=こわい、というイメージがあって、食わずぎらいだった自分に対する戒めも込めて。