読み書き

本を読んで、血となり肉となるようなことがありました。ものを書いて、いろんな人との出逢いがありました。

本を手に取り

 思わずニヤける。
モンテーニュ随想録」全集。モンちゃんはいい。よくぞ、書いた。あると安心という、精神安定剤のような「エセー」。どうしたって、ニヤける。
荘子」。これも、おおらかな気持ちにさせてくれる貴重な本。苦しみや、異形の者、この世の受難など、たいしたことはない、と思わせてくれる本。そうとしか思えなくなる本、と書くべきか。

山川方夫全集」。この全五巻には、山川さんの生前の写真が各巻に。いちばん山川さんらしい写真は、日南海岸で映された一葉。ワイシャツにネクタイで、サングラスを片手に、もう一方の手にはタバコ。そして山川さんは、横にいる映っていない人に向けて、少し困った顔をして、しかし真っ直ぐ見つめながら、何か抗議をするように話し掛けているような姿。山川さんは、こんなふうに、生きていらっしゃったのではないかと思う。

 しかし久しぶりにモンテーニュを手に取った。どうして自動的にニヤけるんだろう? そしてモンテーニュ研究の第一人者、関根秀雄の、温和な笑顔も目に浮かぶ。
 モンテーニュを愛読する者は、長生きする人が多いらしい。わかる気がする。自然、なぜだかニヤけてしまう…。

 寛容。いい加減。憎めない。モンテーニュからは、そんなイメージをもつ。ほんとに不思議な本だと思う。「だから何だ?」という気にも、読んでいてなる文章も多いけれど、眠くなりながらも読んでしまう本。
モンテーニュは大嘘つきだ」という人もあるらしいが、「いいでないか」と、擁護したくなる。そしてモンちゃんは、非難する人をじっと見つめ、擁護しようとする僕をじっと見つめるだろう。
 何なんだろう、このひとの魅力は…。

 だが、モンテーニュが大々的に読まれることは、もうないだろう。それは「世界の名著」の訳者も、ほぼ絶望しているふうに書いていた。
 倉田百三の「出家とその弟子」はまだ読み続けられているのだろうか。親鸞あたりは、まだファンもありそうだが、どうなんだろう。

 モンテーニュの思想のきょうだいといえる「荘子」は、まだ読み易い。わかり易いし、これは読み続けられてほしい。だが、よほど何か、苦労をした人でないと、その言葉は響いてこないかもしれない。だから、その価値があるのだが。

 いや、苦労なんていったら、みんなしている。その労苦を、避けずに、自分のものにしてしまった人に、効く文章かと思われる。
 すると、何やら重みが、荘子を読むと、軽くなっていくのだ。
 そしてやはり、ニヤけるのだ。

 苦しいもの── そこから目をそらす。ごまかす。直視しない。そうするための道具は、沢山あるかのように見える。だがいずれ、直視せねばならなくなるのだ。

 そしてその苦しいものの正体など、わかりはしない。だから、何を見ているのかもわからない。
 が、それでも、何かは見つめ、何かは感じられる。
「気になる」というものがある。その「気」何の気、気になる気、だ。
 その姿は、確乎としては見えねども。