パスカルとモンテーニュ。
ふたりとも、キリスト者であった。
だが、「パスカルは神に殺された」とニーチェは言う。
その敬虔すぎる信仰心ゆえ、肝心な自分自身がはるか後方に追いやられ、彼自身の創造した神に緊縛されてしまった。だから彼は声高に言う、「わたしは神を信じている。わたしは真のキリスト者だ」
神を信じすぎたあまりに、神に喰われたパスカル。
対して、モンテーニュは神とうまくやっていた。
父から譲り受けた自宅、
だが、それは「信じてますよ、ええ、皆さんと同じです」という社会にならった慣習で、習慣以上の意味はなかったように思える。
彼が神以上に心から畏敬し、信じていたのは「自然」であり「運命」だった。
モンテーニュは、神に従うより「自然に従って生きること」を至上の生き方とした──
パスカルは、早熟の天才だったゆえに、早く跳びすぎた。それだけの脚力もあった。だが、その生涯は、あまり幸せそうでない。
彼の生涯を読むと、人間の一生、万物の在り様は、天秤のようなものであることを痛感する。
一方に偏ったある時期を過ごしたパスカルが、名声やら地位を得た。得ることは、そのぶんチャンと、失うことを伴った。軽くなってしまった天秤の一方に、おもりを付けようとして、彼は後年の時間、必死に神にすがったように見える。
バランスを保つこと── それは人間の、そしてこの天地の、万物を育てる自然の、いのちのはたらきに見える。
一方に偏り、バランスを崩したいのちは、それ自身のちからで中点に戻ろうとする。無意思に、無意識に。それが自然であるように。
ニーチェはパスカルを哀れみ、モンテーニュを愛読した。
僕には、ニーチェの狂気はまっとうに見える。パスカルの狂信には、涙ぐむ。
「パンセ」も「ツァラトゥストラ」も、表現・創造せざるをえない自己を抱えた彼らの手によってつくられたものには違いない。
だが、それは個人の運命を越えた、もっともっと大きな運命によって描かれたに違いない。
自然のはたらきには抗えない。いや、抗うまいとして、モンテーニュは積極的な諦念を持って、喜んで「エセー」を書き続けた。
何が言いたかったのかといえば、
人造神に自分を導かせまい。
生ける人を信じたい。
自然にめぐり逢った、
ニーチェのような繊細な情熱と
荘子の、虚空のような寛容さと
モンテーニュが常に感じていた「書ける喜び」を
我が身に備えたいということだった。