ウィキペディア先生によれば、
「モラリスト(仏: moraliste)とは、現実の人間を洞察し、人間の生き方を探求して、それを断章形式や箴言のような独特の非連続的な文章で綴り続けた人々のこと」
とある。
モラルに重きを置く「道徳家」とは全く別の意味の存在。モンテーニュやパスカルが、その「人々」の中に入るという。
また、Weblio辞書によれば、
「エッセイとは、特定の文学的形式を持たず、書き手の随想(思ったこと・感じたこと・考えたこと)を思うがままに書き記した文章のこと」
だそうだ。
モラリストたちの書く目的、関心は「人間」に向けられる。だが、エッセイストは人間よりも自分への関心に重きを置く、と換言できるだろう。
モンテーニュは「自分を研究することは人間を研究すること」と言い切って、塔に籠って淡々と「エセー」を書き続けたが…。
現実の人間を洞察するには、その洞察をする人間自身の眼に、神を宿さねばならない。
それは自然に、重力に逆らわず、その眼にしっかり降りて接着する。
「本物と偽物なんて、容易に見分けられる」それは言う、「でも、偽物が多すぎて、慣れ過ぎてしまった。自分も偽物にならないと、生きて行けなくなってしまった。そんな生は、生きるにあたいするだろうか」
疑う者は、人間の生き方を見つめざるを得ない。
この世界をつくる、人間を創造するのは、人間自身。
「自身の言葉で語ればいいのに。多くの者が、他人の神にばかり従って、自分の神に従わない。わたしは自分の言葉で語ろう。借り物の靴では、歩けないよ」
── モラリストたちは、型に自分を当てはめることをしなかった。
「できなかったんだ」彼らは言う、「疑ったからね。疑えたのは、この眼があったからだ。ならば、この眼に重きを置いて、始めようと思ってね」
「幻影の権化がこの世であるとしたら、わたしはわたしの幻影を信じようと思ってね」
彼らは自分の足で歩き、自分の言葉で語った。
「われわれは、われわれ自身から始めよう」
「架空の神、人間を束ね、愚鈍にさせるものに、この身を委ねまい」
彼らは、そうせざる、ならざるを得ない自分自身に従った。
モラリスト文学は、きっとこの世界を前へ進ませる。
与えられた神によるのでない、ひとりひとりの創造から、世界が創造される。